水滴として

 人間の願いや欲望などの追いかける物を突き詰めると最終的に「幸せになりたい」と言う所に辿り着きます。

 なんのかんの言っても人間は只々幸せになりたいだけなのです。
 夢を追いかけるのもお金を稼ぐのも誰かを好きになるのも誰かを憎むのも、全ては「幸せになりたい」と言う気持ちが大元です。

 しかし、
「何を以って幸せなのか?」。
 これが分かりません。

 貧困国の人が「毎日ご飯が食べれれば幸せ」と言っていました。
 では聞きましょう。毎日ご飯を食べられる人達よ。
 幸せですか?

 愛する人と一緒に成れる事が幸せと言う人も居ました。
 では既婚者の方々に尋ねましょう。
 幸せですか?

 胸を張って幸せだと言える人間がどれほどいるでしょうか?
 中には「幸せだ」と言い切る人もいるでしょう。
 それは一体全体の何割でしょうか?

 人間は「何を以て幸せなのか?」を定義できません。
「これをすれば幸せ」「これをやれば幸せ」と言うのを定義できないのです。
 定義したら定義した端から「そんなことは無い」と言う事が見つかってしまう。

 最終的に「幸せになりたい」これが人間の最終目的なのに幸せになる定義が今一つあやふやで見つからない。
 幸せになる方法が見つからない人間はとても不安定でストレスを感じるでしょう。
 そして救いを求めるようになるでしょう。

 皆さん。
 ここで出てくるのが「宗教」です。

 宗教は「これが幸せ」と定義してる事があります。
 それは「神に救われる事」。

 人間はどうすれば幸せになれるか分かりません。
 しかし全知全能でなんでもできる偉大なる神様ならば自分が幸せになれる方法を知っているはず。

 その神様に救われる為にはどうしたら良いか?
 それはその宗教の教義を守る事です。
 教義を守れば偉大なる神様に救われて幸せになれると信じる。
 信じる者は救われる。

 これが宗教の本来のあるべき姿です。

 宗教とは脆弱な人間がどうしようもない運命を目の当たりにした時、最後にすがる心の支えのようなものです。

 本来、動物の世界は弱肉強食で、当人がどれだけ真面目に生きていようが善行を積んでいようが暴力的な強い奴に理不尽に殺されてしまいます。
 弱い人間にしてみればたまったものではありません。

 人間も動物と同じ「世界」にいるのですから当然理不尽は発生し、それに対して誰も助けてくれはしません。

 ちょっと昔の事ですが、とある少女がレイプされ、その事を訴えたら「少女の方が誘ったんだろう?」と言う判決を受けて少女が刑罰を受ける事になりました。
 これは実話です。
 こんな理不尽が許されるものでしょうか?

 こういう時に「こんな理不尽はいずれ偉大な神様が対処をしてくれる」とか「少女は理不尽な目に遭ったのだから神様がどこかで救ってくれる」とか「理不尽を与えた者は神から天罰を受ける」とかを本気で思う事が宗教です。

 さらに宗教と言う物は「神が設定した素晴らしい世界観」が存在します。
 正しく生きた者が報われ、不正に生きた者が損をする。
 と言う世界観があるのです。

 正しく生きれば偉大なる神が見ていてくれて、どんなに辛い毎日を送っていても、いずれ救われる。
 真面目に頑張った者が報われ、不真面目だった者は報われない。

 そういう世界であって欲しい。
 そういう世界であるべき。
 いや、そういう世界なのだ。
 と言う物。

 そういう世界だと信じるからこそ頑張って生きていける。

 辛くても神様が見て居て下さる。
 だからきっと自分は救われる。
 だから自分は頑張って生きていける。

 これが本来の宗教なのです。

 私もそういう世界であって欲しいし、そういう世界に住みたい。
 本来の宗教とは人にとって理想郷で無ければならないのです。

 つまり宗教とは理不尽を神がどうにかしてくれると信じる事であり、
 神によって不平等から救われると信じる事である。

 よって誰が徳が高いとか、いくらお布施をするとか、
 聖地がどこだとか、礼儀がどうだとか、儀式がどうだとか、
 死者の魂がどうだとか、あの世だとか、オーラだとか、
 宗教団体の組織がどうだとか、団体内の地位がどうだとか。

 そういうものは関係ありません。

 神が居る事を証明するために様々な行動を起こすことや、
 神が居ない事を証明するために様々な行動を起こすことは、
 完全に無意味な行動です。

 一度、宗教と言う物を見直してみる時期に来ているのかもしれません。




 戻る