・苦労という銭
「苦労」と言うものは「物理側」で言う「銭」のようなもので、便宜上、「彩銭(あやぜに)」と称する。
この「彩銭」は苦労すればする程、貯まって行く。
そして「彩銭」によって様々な「精神側の物」が買える。
「彩銭」で買える物は「威風」だったり「人柄」だったり、
内面から発せられる「自信」だったりと様々である。
「大彩銭持ち」になると、
言葉一つ一つが相手を無条件に納得させたりもする。
・最終的にあるべき姿
最終的に一番良い状態と言うのは、
「自分の思うがままに発言・行動をしているのにそれが全て善行」
という状態である。
自分自身は自分の思うがままに、つまり我儘に生きているのだからストレスは無い。
そして、その行動全てが善行なのだから、周りの人間にも感謝される。
これが一番良い状態なのである。
例えば道端にゴミが落ちているのが許せない人間だとしよう。
ゴミを拾い屑籠に捨てるのは完全に自分の思うがままであり、
「自分自身のやりたいようにやった行動」なのである。
自分の好き勝手にやったのに周りの人間は「善行」として評価してくれる。
同様に自分が言いたい事を言ったら、それが言われた人にとって為になる事になり、周りの人間も「良い事を言ってくれた」っと評価してくれるのならばなんでもストレス無しに言い放題である。
自分の思うがままに発言・行動をしても良い世界。
何と楽しい世界だろうか。
世界を変えるのは難しい。
ならば自分がそのように変わるのが一番手っ取り早い。
この最終的にあるべき姿になるにはどうしたら良いか?
それを見つける修行をして行こう。
その為には「彩銭」を貯める事が一番である。
例えば先程も触れたが道端にゴミが落ちてるとする。
人はそれを拾い屑籠に捨てたいと思っても「何故自分がそんな労力を使ってやらねばならぬのか」と「損をした気分」になり、やらない。
確かにその通りだ。
皆が皆、見てみぬふりをして通過してるのに自分ばっかり汚い物を処理すると言う損な役回りをせねばならんのか。
そもそもゴミを捨てたのは自分じゃない。
捨てた奴が拾って屑籠に入れろ。
他人の尻拭いを何故、自分がしなけりゃならんのだ。
これが正論である。
そこをあえて苦労をして「彩銭を貯める」と言う目的で自分がやるのである。
これは「ゴミを拾い屑籠に捨てる」と言う「自分の思い」が達成できる。
ただ注意したいのは彩銭を積むと言っても誰かの下僕になって奴隷生活をすると言う意味では無い。
最初は「彩銭の為、彩銭の為」っと我慢していたものが自然と行動を起こせるようになれば成功だ。
逆にいつまでたっても「彩銭の為」が抜け切らず、また「彩銭を集める為になら何でもする」ようになったら失敗である。
・自然と行動が起こせる様になっても
奉仕活動、勤労、などなどの他者からみて立派な行為を自然と振舞えるようになった時、
「愛の為」「誰かの為」「人々の為」「世の中の為」などと言う「自分を善人側」と考えてはならない。
全ての行動は「自分の修行の為」と言う「利己的な行動」と思うべし。
もしも「世の為人の為」と思うようになってしまっては、いざ自分の身に不幸が起きた時、「自分はいつも良い事をしているのに何故?」とか「自分は報われるべきなのに何故?」と思ってしまう。
また、他者と対峙した時「あいつは自分よりも善人ではない」とか「私のほうが良い事をしている」と思ってしまう。
自分を善人側、正義側と思うようになってしまうと、逆に不満が溜まって行くのである。
そう思わない為にも、全ての行動は「自分の修行の為にやっている」と思う事である。
・修行の大切さ
あらゆる苦行(仕事、生活、そのほか面倒な事)は全て自分を高める修行であるとする。
面倒でやりたくない事、上司からのお叱り、発生してしまったギスギスとした空気。
自的苦痛、外的苦痛の全てを「これは修行の為」と思い、全力を持ってあたるべきである。
さて。ここで繰り返し言う「修行」。何故それ程までに大切なのかと言うと『人の評価はその人の「能力」による』からである。
精神的な面でとても好感の持てる人も評価に入るであろうが、好感があるだけで能力の無い人は結局お荷物になるのである。
だから人は修行し、自分の能力を高め、その上で好感の持てる人間となるのだ。
人の良点を精神的な物に求める人も先ずは「有能」になることが先である。
・美しさは常に気にかける
誇りを持ち、清貧清潔誠実を保ち、紳士に生きる事も大切な要素の一つである。
紳士たるものが苦労を重ねるから美しいのであって、卑屈に生きるのは醜態を晒すだけである。
紳士に生きようとする行為が周りを幸せにする一つと心得る事である。
清貧とあるがこれは心持の事であり進んで貧乏になれと言う訳では無い。
富の重さや富の柵に己が心が潰れず揺らがなくなるならば富んでも構わない。
・最終目標
目標は「最終的にあるべき姿」で述べた「自分の思うがままに発言・行動をしているのにそれが全て善行」を目指す事である。
便宜的にこの「最終的にあるべき姿」を「彩世の境地(さいよのきょうち)」と名付ける。
人の世で学び修行を積み「彩世の境地」に辿り着く。
それこそが到達点である。
|
|